荒川静香さんのイナバウアー
不勉強が身にしみる 学力・思考力・社会力とは何か 著者:長山 靖生 |
「不勉強が身にしみる」のあとがきより
「だが、はたからは上手いことやっているように見える連中も、たいてい陰では努力をしている。それがおぼろげに分かるようになってきて、ようやく、世の中はそれなりに公平なのかも知れない、と思えるようになってきた。(中略)
いわゆる「勝ち組」と「負け組」(あるいは負け組を擁護する、昔ならマルクス経済学をやっているような学者)が、このテーマで議論してもかみ合わないことが多い。その理由は、ここには「努力しやすい人」と「努力しずらい人」がいるだけで、「努力しなくてもいい人」はいないからだ。(中略)制度をどう改革しても、努力しなくてすむ社会が来ることはないし、個人の自由を重んじれば、格差もまた拡大する。」
マスターが聞いたところによると、昔ならスポーツでも芸術でもがんばって良い成績をのこした子供には全校集会で校長先生からみんなの前でお褒めの言葉があっただろうが、最近の学校は良いことも拙いことも極力触れないようにしているそうだ。
一芸に秀でた人はとてつもない努力を陰で積んでいるであろうということを改めて考えた荒川静香さんの「イナバウアー」であった。
マスターも以前、ピアノコンクールなんかに出てくる子供は天才でこの辺にいる子供とは別の天才だと思っていたことがあった。でもコンクールに出るために一日に2時間も3時間もピアノを練習してコンクールに挑戦する子供を自分のピアノ教室から出すようになって考えをあらためることにした。一見すると天才のように見える子供も、絶え間ない努力をかさねているだけだということに思い至ったのであった。
「何もピアニストになるわけじゃありませんものねぇー」 ピアノをさぼる口実でこう言うことが多いが、ピアノを一生懸命がんばることで得られるものは何なのだろう。それは「努力すること」を子供のうちに知ることではないだろうか?
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